総合TOP > リコメンドインデックス > (隔)週刊 鷺巣詩郎 > 2008/04/02 松本伊代
このところジャズ系のアーティストが中心だったし、ここいらで気分転換して…そうそう、海外アーティストばかり続いたし、毛色を変えて…ちょっと重めの話題も多かったので「ま、軽めのモノを」といっては何だが……そうだ、歌謡曲を! しかも「アイドル」歌謡曲なんていうのはどうだろう!? 時は1981年の初夏、港区の某スタジオでセッション作業中の僕は、小枝のように華奢な少女を紹介された。森村学園の制服を着たままで、下校途中にレコーディング・スタジオなるものを初めて見学に来た「デビュー前の松本伊代」本人だった。東京や横浜の私立校育ちには、わりと知られた制服であり「厳しい校則だろうに、制服でこんなトコに寄っても大丈夫かな? ま、事務所のヒトが保護者代わりだからイイのか?」なんて思ったことさえも、とにかく当時のことを鮮明に覚えている。 中森明菜の『クリムゾン』を紹介した回にも書いたが、編曲家=アレンジャーという職種の僕らが、アイドル・シンガーの仕事の際、当の本人と遭遇する機会は、作詞家、作曲家とくらべて「ひじょうに少なかった」。このシンガーに「詞を書いてください、曲を書いてください」、それにはまず「本人はこういう子です」と知らしめるべく、依頼時に本人を紹介される機会が多いのは作詞家、作曲家であり、編曲家は同じ楽曲の仕事でも、対峙すべきはシンガーよりもまず、「どういうアレンジにしたいか」を具体的に思い描くメーカーのディレクターか作曲家であることは明白だからである。 この時、本人と遭遇したのも、決して「アレンジャーである僕に会いに来た」わけではなく、単に「レコーディング・スタジオというのはいったい如何なる雰囲気か?」と見学に来たら、「たまたま僕が作業をしていただけ」のこと。逆に言えば、アイドル・シンガーでも、このようにデビュー前であればアレンジャーとて遭遇確率が高いということだ。 そう、松本伊代のデビュー曲“センチメンタル・ジャーニー”をアレンジしたのは、この僕、鷺巣詩郎だ。さらにデビュー以降7作のシングルをも連続して手がけた。結果、1985年までの5年間で、つごう9曲のシングル、アルバムやB面(アナログ盤ならではの懐かしい言い方)シングルB面については30曲ぐらいだろうか…あと未発表曲なども入れれば合計40曲以上もの松本伊代作品をアレンジしたことになる。もしかして、彼女の楽曲を一番アレンジしたのが僕ってこと!? ならば、ここでこうして彼女の『コンプリート・シングル・コレクション』を、僕が紹介するのは、きわめて自然といえば自然、ま、多少、複雑(笑)ではあるが……。とにかく、このアルバム中の“センチメンタル〜”から“太陽がいっぱい”までの7曲、そして、“時に愛は”と“月下美人”の、編曲家クレジット本人による「セルフ紹介文」なワケである。 話はそれるが、デビュー時の彼女が16歳だったことは、かの有名な歌詞のとおりで、当時はこんなこと考えてもみなかったのだが、ふと、先ほどスタジオで初めて彼女を紹介された時の自分の年齢を思い出し、当時の主要スタッフたちの年齢に比して驚いた。ビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)の担当ディレクターだった飯田久彦氏(現エイベックス・エンタテインメント取締役)が当時40歳、原盤制作プロデューサーだったロビー和田氏が35歳、作詞家の湯川れい子氏が42歳、作曲家の筒美京平氏が41歳だったのである。彼等一流スタッフにしてみれば、当時23歳の若造だった僕など、彼等より松本伊代の年齢に近いのだ…正直いま考えてみれば、よくもまあ無謀にも(笑)僕ごときを抜擢してくれたものだと…さらには、以降数作に渡り起用してくれたことも含めて、いまあらためて大いに感謝せねばなるまい。もし自分が逆の立場だったなら、つまり、たとえば現在の僕は若手に大役を託せるだろうか? などと自問してみたりして…。 さて、せっかくだから当事者のみが知りうる事実も、ここに記しておこうか。 まず、「“センチメンタル・ジャーニー”は3度レコーディングされた」という裏話を。 スタッフが本人とキー合わせをして「C」キーでレコーディングと決定。(筒美)京平さん主導による綿密なアレンジ打合せの後、リズム・セクションを録り、さらにはストリングス・オーケストラのダビングまでが終了、あとは、いざ本人の唄入れに臨んだのだが、なにせレコーディングは初体験。彼女本来の鼻にかかった特徴的な声の魅力がいまいち発揮されなかったため、ビクターの飯田さんが、キーを半音落とし「B」にして、リズムもストリングスもすべて録りなおそう、と英断したのだ。つまり、なんと初っ端からのレコーディングのやり直しである。これは極めてめずらしいケースだ。2〜3ヶ月ごとに新曲をリリースしていくのが常だった、当時のアイドル・シンガーたちのプロダクション事情下にあって、こんな「予算も、手間も、時間も」2倍ぶん費やすなど、非常識だったからである。楽器経験者なら「B」が、いかに難儀なキーであるかは言うまでもあるまい。しかしアイドルでもジャズでも、こと女性シンガーには、この面倒な「B」キーが多いのもまた、よく知られた事実だ。 さらに、このデビュー曲はバッキング・ボーカルが、これまた豪華。まず東京でEve姉妹を録った後に、LAまで飛び、なんとWaters姉妹に差し替えたのである。当時の日米それぞれのファースト・コール(誰もが真っ先にスケジュールを押さえる一番の売れっ子)スタジオ・シンガーたちを意のままに使ったのだからスゴイ。そして、そのままLAにてMixまで完成させたのだ。この2度目のレコーディング・テイクが、晴れて彼女のデビュー・シングルのファイナル・テイクとなったわけだ。 あれ? じゃあ3度目のレコーディングとは、いったい? それはタイアップのロッテCM用のテイクである。 CMサイズはCD用フルサイズからの編集が当たり前の現在(というか、80年代中後期以降)は信じがたいが、当時は短いサイズは、あくまでも「別」テイクで録っていたのである。レコード・サイズ+30秒サイズ+15秒サイズなど、同日にレコーディングしてしまうことが多かったが、スコアも別々に3種類書いて、リズム〜オーケストラ〜バック・コーラス〜リード・ボーカル〜ミックスの工程も3種類それぞれすべて行われたものだった。いまならPro Tools(コンピュータ制御ソフト)で、ものの3分で出来る編集も、当時は半日仕事だったのだ。しかも、この“センチメンタル〜”はCMタイアップが取れたのが発売直前だったため、CMサイズ録りが、同曲つごう「3度目」のレコーディング・セッションとなったのである。ちなみに、3度ともアレンジは僕だが、参加ミュージシャンも、スタジオも、エンジニアも、すべて異なったものとなった。ま、これはスケジュール的な理由だ。試しに思い出してみたら、いまでも、そのすべてを逐一記憶していた。レコーディング・セッションとは不思議なもので、なにかがキッカケとなり、記憶が鮮明によみがえるものだ。やはり「音〜音楽の魔性」なのかもしれない。 このアルバムを聴いていると、他にも本当にいろいろなことを沢山思い出す。しかし、当事者だからというのではなく、一般リスナーこそ、それが男性にとっての女性アイドルであっても、女性にとっての男性アイドルであっても、こと「音楽」である以上、この「魔性の記憶」がつきまとうものである。アイドルに夢中になっていた、あの頃…「若気の至り」の一言では片付けられない記憶の連鎖…つまり、その曲がトリガーとなって数々の出来事を思い出す、という脳の回路の面白さである。人間たまには、チョット恥ずかしい、いや誇るべき若き日々をかえりみるのも悪くはない。 鷺巣詩郎(さぎすしろう)