総合TOP > リコメンドインデックス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2007/10/24 伊藤敏博
伊藤敏博は1975年4月、国鉄金沢鉄道管理局に就職し、すぐさま北陸本線「親不知駅」の構内係に配属されたが、余暇を音楽活動にあてた。国鉄に入ったものの歌に対する未練が断ち切れなかったからだ。オリジナル曲がいくつかできるうちに、喫茶店で自主コンサートをやるようになった。すると小さな町なのですぐに評判になりNHK・FM新潟に取り上げられ、その番組の担当アナウンサーに大いに気に入られ、それからは定期的にゲストとして呼ばれるようになった。ところが、そのアナウンサーが人事異動で運悪く転勤することになってしまった。と同時に、番組のゲスト出演はぷっつりと途絶えてしまった。新潟にいてもしかたないと思った彼は、富山の方がチャンスがあるとふんで、車掌の試験を受け、合格。 77年秋、チャンスを求めて、富山車掌区に赴任し、城端線、富山湾線などローカル線6本の客車車掌となる。国鉄に勤めながら彼は歌える場所がありさえすれば、どこへでも出かけて行くという精力さだった。しかしながら、そんな彼も77年秋頃になると、ふと歌を辞めようと思うようになる。国鉄に入って4年目、うたうことは楽しかったが、プロになれるあてのない“果てしない旅”はいつしか彼を疲れさせてしまったのだ。 「もう疲れたし、いいだろうと思ったんです。そんなときに〈つくしのコンサート〉という身障者の人が書いた詞に曲をつけてうたうというのがあって、ぼくのところに依頼が来たんです。そのとき、ぼくを必要としているならやるべきだと思って、続けることにしたんです」 再びやる気を出し、80年春の〈第19回ポプコン〉に再度チャレンジしたところ、富山地区大会は2位入賞で、つま恋本選会には行けなかったが、大いに注目された。それに気を良くして、81年春の〈第21回ポプコン〉に「サヨナラ模様」で出場、三度目の正直で見事にグランプリを射止めてしまった。彼にとっては、まさしく苦節6年目にして手に入れることができた“大金星”だった。そして同年8月25日、「サヨナラ模様」でデビュー、50万枚を超える大ヒットとなり、彼はその手に“夢”をつかんだのである。