総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2006/11/08庄野真代
アーティストの本質を見抜き、その魅力を引き出せるか否かにディレクターの手腕はかかっている。その意味では三野明洋さんは優秀なディレクターだったといえる。彼の存在がなかったら庄野真代はメジャーになっていなかっただろう。 彼女は1954年12月23日に大阪市で生まれた。高校に入ると、森山良子やビリー・バンバン、五つの赤い風船などに憧れ、友人とフォーク・グループ“もんしろ蝶”を結成。3年のとき、グループは受験のために解散したが、彼女だけはソロとして、<ヤマハ・ポピュラー・ソング・コンテスト>に挑戦したが予選で落ち、ついで大学も落ちてしまった。「それでも私はどうしてもうたいたかった」ため、浪人中に<ヤマハ・ボーカル・オーディション>をうけ、合格するとポプコンの“譜面歌手”として仕事を始めた。 「譜面歌手というのは、コンテストに譜面だけで応募してきた人のために、代わりにうたってあげる役です」 いい換えれば、譜面歌手は自作自演ではなく、与えられた歌のみをうたう歌謡歌手のようなものだ。譜面歌手時代に、彼女はポプコンに出るかたわら、ヤマハの合歓の郷のクラブ“夢殿”で、カントリー、ソウル、ポップス、フォークなどをうたっていた。 そんな生活が1年半も続き、結局レコード・デビューを果たせないままヤマハ関係の仕事を辞めたのが74年の10月のこと。その後、大阪にとどまって、オリジナル曲を意欲的に作り始め、75年2月にNHKのオーディションに合格。5月には<全国フォーク音楽祭関西地区大会>で優勝。全国大会では惜しくも入賞は逸したが、これがきっかけでコロムビア・レコードにスカウトされた。当時は折りからのユーミン・ブームで、女性シンガー・ソングライターが脚光を浴びていた。必然的に彼女もシンガー・ソングライターということで76年5月に「ジョーの肖像」でデビューした。三野さんは語る。 「そこそこは売れていたんですが、もっと売るためには彼女のボーカルを生かす曲が必要だと思って曲を捜した結果、ユーミンの“中央フリー・ウェイ”を見つけたんです」 「中央フリー・ウェイ」は77年4月10日に発売されスマッシュ・ヒットした。三野さんの“読み”は正しかったということである。