総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2006/09/27 紙ふうせん
「竹田の子守唄」のヒットで知られる“赤い鳥”は、1974年9月に惜しまれながら解散した。メンバーだった後藤悦次郎と平山泰代はすぐ“紙ふうせん”を、大川茂、山本俊彦、山本潤子は3人で“ハイ・ファイ・セット”を結成した。 赤い鳥時代は東京に住んで東京を拠点にしていた彼らだが、紙ふうせんは、昔ながらのコンサートをメインに地味な活動を続けた後、76年3月に活動の場を東京から関西に移してしまった。後藤が関西出身とはいえ、東京を離れることは、音楽の場合、仕事が減少してしまう。それでも彼らは関西に帰って行った。 「東京に全部集中されていることに対する反発でしょうね。中央でひとつの流れの中に組み込まれてしまうと、自由な音楽活動ができなくなってしまう」 後藤は関西に帰った理由をそう説明する。宝塚市に居を構え、毎月1回の定例コンサートを始めた。 「関西に帰って良かったことは、業界の動きが激しくないから雑音が入らないことです。変に色気が出ないから、マイペースで目標に近づけることですね」 関西に帰って約2年、彼らは関西に根をしっかりと張ることができた。根を張ることによって、初めて真の土着的なフォークが生まれた。ハイ・ファイ・セットは都会派のポップスを、紙ふうせんは土着的なフォークを志向していたところに、実は赤い鳥の解散があったのだ。 「関西に基盤が作れたところで、その輪を全国的に広げていこうと思いました。そのためには紙ふうせん自体が世間で認められ、吸引力を持たなければならない。だからこそ、ぜひ売りたかったんです」 こうしてヒットを意識して、「冬が来る前に」(77年11月1日発売)はことさらポップな感じにした。その結果、50万枚を超えるヒット曲となったのである。 *『Saintjeum』収録の「冬が来る前に」等の旧曲は、新しい編曲によるニュー・バージョンです。