総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2006/09/13 上田正樹
“上田正樹とサウス・トゥ・サウス”を解散した上田正樹は、’77年からソロ活動を開始して、’81年には鳴り物入りでCBS・ソニーに移籍した。だが、思ったようには売れなかった。そこで関屋薫ディレクターは考えた。“シンガー・上田正樹”の魅力を引き出そうと、何人かの作曲家に曲を依頼したのだ。そんな中に当時新進気鋭の林哲司さんがいた。林にはバラードが依頼された。上田のハスキー・ボイスがバラード曲に乗れば、そこに独特の味わいが生まれるという関屋さんの計算があってのことだったが、林から届いたメロディーはその予想の上を行く素晴らしいものだった。 いい曲を得た関屋さんは、作詞家の康珍化に歌詞を依頼する。 「いい曲ですね。一晩考えさせて下さい、というのが康さんの返事でした。そうしたら、その夜に電話がかかってきて、あの曲、関西弁で書いたらまずいだろうか、と言うんです。まさか女性の世界になるとは想像しませんでしたが……」 この時点で関屋さんの頭の中には全体像ができあがった。メロディーもサウンドもオシャレだけれども、歌詞は関西弁で、上田のハスキー・ボイスも泥臭い。これで歌謡曲ではない新しいAORが生まれた、と関屋さんは確信したと言う。曲名も『大阪ベイブルース』から『悲しい色やね』と変えて、まさに自信作だった。 「できあがりました」と言って、関屋さんから林に『悲しい色やね』が届けられた。ワンコーラスを聴き終えたとき、「ひでえ曲にあがったな」と林は思ったと言う。演歌ロックふうに仕上がった『悲しい色やね』は、あくまで洋楽っぽくてスマートなポップスを志向する彼の作曲家としての“美意識”に反していたというわけだ。 しかし、彼が「ひでえ作品だな」と思った『悲しい色やね』は50万枚を売り上げる彼の初めての“大ヒット曲”になってしまう。このとき、彼は作曲家としての美意識と売れるという現実は違うということを知り、売れるコツをつかんだと言う。 「もしかして自分自身のやってきたことって、単にメロディーだけを感情に任せて書いていただけにすぎなくて、人が歌う肉声としての歌ということの観点から見ていなかったんじゃないか、というような気が、そのときしたんです」 そして得た結論は、「最終的に人の心を打つものは何かと考えたときに、それはやっぱり歌になっていなければいけないんじゃないか、ということを結果として感じたわけです」ということだ。