総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2006/08/09 庄野真代
庄野真代が1978年4月1日に「飛んでイスタンブール」を出したとき、ニューミュージック界では批判されたものだ。なぜなら、「飛んでイスタンブール」は歌謡曲のヒット・メーカー、ちあき哲也(詞)、筒美京平(曲)コンビによる曲で、彼女のオリジナル曲ではなかったからだ。 「これまでの私のファンは“飛んでイスタンブール”を、私がうたうことを嫌がるんじゃないかと初めは心配でした。でも、私は筒美京平さんを、いい曲を書く作曲家として尊敬していましたので、ぜひ曲を書いて欲しいと思っていました。まさか“飛んでイスタンブール”のようなポップな曲ができあがってくるとは思ってもみませんでしたが、できあがってきた4曲の中で“飛んでイスタンブール”が最も“気にかかった曲”なので、A面はこれしかないと思いました」 彼女にとって、「飛んでイスタンブール」をうたうことはひとつの“賭け”だった。失敗すれば、それまでの2年間の苦労が水泡に帰してしまう。そんな危険性を孕んだ賭けだったが、彼女はその賭けにあえてチャレンジした。 その賭けを仕掛けたのが三野明洋プロデューサーだった。 「そのときぼくは、彼女の声質を生かし、あのボーカルをメジャーにすることしか考えていませんでした。その1年前にユーミンの“中央フリー・ウェイ”をうたってスマッシュ・ヒットさせていましたから、曲さえはまれば彼女は必ずメジャーになるはずだという確信はありました。で、そんな曲を京平先生にお願いしたんです」 こうして「飛んでイスタンブール」はできあがった。「カラーを出すために無国籍な海外ということでイスタンブールにしました」という三野さんの詞の設定も良かった。 その結果、この曲は60万枚を超える大ヒットとなった。三野さんと真代の賭けが大ヒットを生んだのである。