総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2006/07/26 ザ・フォーク・クルセダーズ(2)
1968年2月20日、ザ・フォーク・クルセダーズの北山修、加藤和彦、はしだのりひこは、六本木の喫茶店でステージの打ち合わせをしながら妙に落ち着かなかった。なぜなら、ちょうどそのころ、東芝レコードでは彼らのニュー・シングル「イムジン河」を発売中止にすべきかどうかが協議されていたからだ。協議結果はただちに彼らに知らされることになっていた。やがて知らせがもたらされた。東芝レコードの決定は「日本語詞が原作の詞に忠実でないことを反省し発売を中止する」ということだった。 「イムジン河」はフォークルの自費制作アルバム『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ』の中に収録されていたが、もともとは「帰って来たヨッパライ」の作詞を北山修と共作した松山猛(エッセイスト)が、京都にいた韓国の女子大生から教えてもらった韓国の歌だった。それを松山は女子大生の話をイメージにして、ひとつの民族が北と南に分かれるという悲しみの歌に作りあげていた。その歌を高嶋弘之ディレクターが気に入ってフォークルの第2弾シングルに決定したのだ。発売中止の決定を受けた高嶋さんは「イムジン河」に代わるニュー・シングルを急いで作らなければならなかった。こうしてたった2週間ほどで作りあげてしまったのが「悲しくてやりきれない」(68年3月21日発売)だった。作詞は詩人のサトウ・ハチローが担当し、加藤和彦が曲をつけた。 高嶋さんは意外な裏話を披露する。 「加藤君をホテルに缶詰めにして曲を書かせたんですが、そのとき加藤君は“イムジン河”のテープを逆回転させて、それをイメージにしてメロディーを作っていました。“イムジン河”を逆回転させると、なんともいえない悲しい感じになるんです。“悲しくてやりきれない”のあの悲しいメロディーはこうして生まれたんです」 「悲しくてやりきれない」のフレーズに、やるせないモヤモヤしたこの気持ちを、いったいだれに告げようか、とあるが、これは当時の彼らの素直な“心情”でもあるのだ。