総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き! > 2006/05/10 海援隊(2)
デビューして10ヵ月ほど経った1973年8月のこと、海援隊は彼らの担当プロデューサー、浅沼勇さんに呼ばれた。 「お前ら、レコードの売り上げがあまりにも悪すぎる。今、うちの会社は減量経営になりつつある。そんな時期だから、今度売れないと、お前ら、田舎に帰ってもらうことになるぞ」 そういわれて、武田鉄矢は、なんとかしなければ、と思った。 デビュー・アルバム『海援隊がゆく』は予想に反して、まるで売れなかった。自信があったコンサートも東京ではさっぱり受けなかった。鉄矢が博多弁を使ってしゃべればしゃべるほど東京ではシラけるばかりだった。鉄矢は自信をすっかり失いかけていた。 そんなときだった。福岡の同僚でありライバルのチューリップの「心の旅」がヒット・チャートのトップになったというニュースが飛び込んできた。「チューリップにだけは負けないぞ」──意気消沈していた鉄矢は気を取り直し、ペンを取って机に向かった。そうしてできあがったのが「母に捧げるバラード」だった。 鉄矢はこの歌にすべてをこめた。東京で博多弁は通用しないことも身をもって知ったので“お母さん、今ぼくは思ってます”と出だしはわざと標準語を使い、途中で“コラ! 鉄矢 なんばしよっとかいなこの子は”と博多弁に切り替えた。鉄矢は崩れてしまう夢と必死になって戦っていた。子供が困ったときに母にすがりつくように、鉄矢は助けてくれと故郷にすがりつこうとしたのだ。その意味では、「母に捧げるバラード」は追いつめられた鉄矢の悲鳴のような歌だといってよい。 この歌は73年12月15日に発売された。年の瀬もおしつまって世情が騒然としているさなか、この歌は“面白い”ということで忘年会用の面白ソングとしてまず注目された。そして暮れから74年初頭にかけて大ヒットし、この歌が海援隊を“死に体”から救うことになったのである。