総合TOP > お役立ちインデックス > OnGenアーカイブス > 富澤一誠のフォークが好き!> 2005/12/14 井上陽水(1)
井上陽水は“アンドレ・カンドレ”という芸名で1969年9月1日にCBS・ソニー・レコードより「カンドレ・マンドレ」でデビューした。しかし当時は、時代が陽水の歌を欲しているとはいい難かった。つまり、高石ともや、岡林信康などに代表される関西フォークのプロテスト・ソングが全盛だったため、夢をうたう陽水のきれいなフォークは、受け入れられる余地がなかったということだ。 同年12月に発売されたシングル第2弾「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」もまったく当たらない。翌'70年10月になると、シンガー・ソングライターというよりも、むしろシンガーとしてやってみる方がいいのではないかということで、当時ベッツィ&クリスやトワ・エ・モワにフォーク調の曲を書き、大ヒットを飛ばしていた加藤和彦に曲を依頼し「花にさえ鳥にさえ」を発表したが、これまた不発に終わってしまった。そして、これ以降レコーディングの話はプッツリとなくなってしまった。 '70年10月から'71年まで、空白の1年間が続く。陽水の最悪の時期だ。だが、この不遇時代に陽水は、港湾労働者などのアルバイトで生活を立てながら曲作りに励んだ。やがて陽水の「白い船」「傘がない」を当時ポリドール・レコードの多賀英典ディレクターが耳にする。年に1回行われる<ポリドール新人オーディション>に陽水が参加したからだ。 陽水の才能をひと目で見抜いた多賀がスカウトし、'72年3月にアンドレ・カンドレという芸名を本名の井上陽水に戻し、陽水はポリドールから「人生が二度あれば」で再デビューを果たした。同年5月にはファースト・アルバム『断絶』、7月1日には2枚目のシングル「傘がない」も発売された。だが、玄人受けはしたものの売れ行きはパッとしなかった。当時は吉田拓郎、泉谷しげるなどのような自己主張の強いメッセージ・フォークが全盛で、自らの内面を素直に吐露し、しっとりとうたいあげる陽水は時代に合わなかったからだ。 ここでも陽水は、時代の波に乗ることができずに再び涙をのむことになる。きびしい現実である。